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東京地方裁判所 平成2年(ワ)10439号 判決

原告

石井日出子

石井光一

右原告ら訴訟代理人弁護士

森谷和馬

飯田正剛

被告

東京海上火災保険株式会社

右代表者代表取締役

中西正和

被告

医療法人財団海上ビル診療所

右代表者理事長

石山豊應

被告

小山幸男

桐野有爾

林田康明

右被告ら訴訟代理人弁護士

田中登

高崎尚志

柏木秀夫

野邊寛太郎

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

一  被告小山幸男(以下「被告小山」という。)及び被告東京海上火災保険株式会社(以下「被告東京海上」という。)は、連帯して原告ら各自に対し、金四六〇〇万円及びこれに対する昭和六二年一一月二〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告桐野有爾(以下「被告桐野」という。)、被告林田康明(以下「被告林田」という。)、被告医療法人財団海上ビル診療所(以下「被告海上ビル診療所」という。)及び被告東京海上は、連帯して原告ら各自に対し、金二八七万円及びこれに対する昭和六二年一一月二〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、原告らの妹である石井まゆみ(以下「まゆみ」という。)が、当時勤務していた被告東京海上の実施した社内定期健康診断を受けた際、胸部レントゲン写真の異常陰影が見過ごされ、診療時の訴えも取り合ってもらえなかったために、肺癌に対する処置が手遅れとなり救命も延命もできなかったとして、医師である被告三名に対し不法行為に基づく損害賠償を、更に右医師らの使用者たる被告二社に対して民法七一五条などに基づく損害賠償を請求する事案である。

一  争いのない事実等

1  当事者

(一) 原告石井日出子はまゆみの姉であり、原告石井光一(以下「原告光一」という。)はまゆみの兄である。

(二) 被告東京海上は、損害保険事業を営むことを目的とする株式会社で、かねてより東京の本社ビル本館内に東京海上火災保険本店診療所(以下「本店診療所」という。)を設け、嘱託医師等を常駐させて社員の診療等を実施してきた。被告小山は、内科・呼吸器科を専門とする医師であり、昭和六〇年及び六一年には被告東京海上の嘱託医として本店診療所において診療に従事していた。

被告海上ビル診療所は、診療所を経営することを目的とする医療法人財団で、昭和六二年一月から被告東京海上の東京の本社ビル新館内で診療を行っている。被告桐野及び被告林田はいずれも内科を専門とする医師であり、昭和六二年には被告海上ビル診療所の勤務医として診療に従事していた。

2  被告東京海上は、毎年全社員の定期健康診断を実施しており、東京の本店については、本店会議室に臨時の検診場を設けて検診を行い、身体・視力・血圧の測定、尿検査、胸部レントゲン検査の他、医師による問診及び聴診等を行い、必要があれば精密検査を指示することにしていた。胸部レントゲン写真については、オデルカ一〇〇ミリミラー方式による間接撮影で、後日本店診療所において医師二名による同時読影が行われた。そして、被告東京海上は、昭和六二年度からは、定期健康診断を被告海上ビル診療所に委嘱するようになり、まゆみが受診した成人病Aコースでは、右検査項目のほか、問診表の提出、血液検査、心電図測定等が実施され、胸部レントゲン写真については、直接撮影で医師一名による読影が行われた(甲第二九号証、第三〇号証、被告小山、被告桐野各本人尋問の結果)。

3  まゆみは、昭和五一年四月、被告東京海上に入社し、昭和六〇年八月一日から東京営業第二部小岩支社勤務となった。

まゆみは、入社以来、毎年、被告東京海上が実施する定期健康診断を受診していた。

(一) まゆみは、昭和六〇年九月一七日、本店診療所において定期健康診断を受診したが、被告小山は、右検診の際に撮影されたまゆみの胸部レントゲン写真(以下「昭和六〇年九月のレントゲン写真」という。)を読影して「異常なし」と診断した。

(二) まゆみは、昭和六一年九月一六日、本店診療所において定期健康診断を受診したが、被告小山は、右検診の際に撮影されたまゆみの胸部レントゲン写真(以下「昭和六一年九月のレントゲン写真」という。)を読影して「異常なし」と診断した。

(三) まゆみは、昭和六二年六月一七日、被告海上ビル診療所において定期健康診断を受診したが、その際、胸痛及び息苦しさを訴えた。被告桐野は、右検診の際に撮影されたまゆみの胸部レントゲン写真(以下「昭和六二年六月のレントゲン写真」という。)を読影した。

被告海上ビル診療所は、被告東京海上を経由して、まゆみに対し、右定期健康診断の結果を報告書によって通知したが、同報告書には、糖尿病精査のための糖負荷検査受診の指示及び右第二弓の軽度突出、右横隔膜の挙上を認めた旨の記載があり、まゆみは、同年七月一四日、被告海上ビル診療所において糖負荷検査を受けた。

右検査の際、まゆみは、被告桐野に対し、六月中旬ころから咳及び痰が出て、痰の一部に血の混じることがあったと話し、被告桐野は、同日、まゆみの胸部レントゲン撮影を行い、その写真(以下「昭和六二年七月のレントゲン写真」という。)を読影した。

(四) まゆみは、同年七月二七日、同月一四日の糖負荷検査の結果を聞くために被告海上ビル診療所へ行き、被告林田から糖尿病の診断を受けた。その際、まゆみは、被告林田に対して、湿性咳の症状があり、時折発作的に咳き込むことがあると訴えた。

4  まゆみは、同年八月四日、日本大学駿河台病院(以下「日大病院」という。)で受診し、同月一三日入院して九月に入ってから化学療法を受けた。更に、同年九月一七日、東京女子医大病院へ転院し、全身温熱療法を三回受けたが、同年一一月二〇日、同病院において肺癌による呼吸不全により死亡した(乙第一二号証から第一五号証まで、原告光一本人尋問の結果)。

二  争点

1  被告小山の過失

(一) 原告らの主張

(1) 昭和六〇年九月のレントゲン写真では、右の心臓の辺縁の横に淡い異常陰影が認められ、昭和六一年九月のレントゲン写真では、右の第九肋骨の根元と第四肋骨の先端が重なるあたりに、辺縁が不規則な最大径は約二センチの濃い異常陰影が認められる。担当医師としては、右各写真を読影した際に通常の注意を払っていれば、異常陰影を発見することは可能であり、発見すべき注意義務があるにもかかわらず、被告小山は、これを怠って異常陰影をいずれも見落とした過失がある。

(2) 被告小山は、呼吸器に関するスペシャリスト、更には肺癌のスペシャリストといえる立場にあり、被告東京海上の嘱託医として同社の健康診断に従事し、中でも約三〇年にわたって胸部レントゲン写真の読影を行ってきたものであり、胸部レントゲン写真上で肺癌を見つけることにつき、一般の内科医よりも高い能力を持っており、高度の注意義務を要求される立場にあった。

(二) 被告らの主張

(1) 昭和六〇年九月及び昭和六一年九月の各レントゲン写真については、いずれも異常陰影は認められない。

仮に、異常陰影が認められるとしても異常を指摘するのはかなり困難で、一般臨床医の医療水準を前提にすれば異常を発見できない可能性の方が高いといえるから、被告小山が異常なしとしたことに過失はない。

(2) 医師の注意義務の判断基準は、抽象的には診断当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準とされているが、現実の医療水準は、一般診断か精密検査か、診療所における診断か大学病院における診断か等の諸条件に応じた相対的な基準として判断されるべきであるところ、そもそも社内定期健康診断におけるレントゲン撮影は、大量かつ簡易に処理することを目的としており、大学病院のような専門性を有するものではないから、本件過失の判断にあたっては一般臨床医学の水準を基準とするべきであって、読影担当者の立場によって、過失判断の基準に変更を生ずることはない。

2  被告桐野の過失

(一) 原告らの主張

(1) 昭和六二年六月のレントゲン写真では、右の横隔膜が少し挙がっており、右下肺野内側(場所は、肋骨の後ろの部分の第七肋骨から第九肋骨にかけて。第七肋骨と第八肋骨にわたる部分)に辺縁が鮮明で大きさは上下約五センチの腫瘤影(腫瘤の内側は縦隔に接している。)が認められる。担当医師としては、右写真を読影した場合には、異常陰影に気づいて、直ちに精密検査を指示すべきであった。ところが、被告桐野は右写真を読影しながら総合判定を行い、まゆみの血糖値がやや高いことから「要精密検査」という判定をしたが、右写真の所見については、「右の第二弓の軽度突出と右の横隔膜の挙上」を認めたものの、それ以上踏み込んだ検討をせず、この点について特段の措置をしなかった過失がある。

(2) また、まゆみは、昭和六二年七月一四日、糖負荷検査と被告桐野による診察を受け、その際、同年六月末に血痰が見られ、七月に入ってからは咳込んだり痰がからんだりしていることを話し「肺癌でないか心配だ。」と訴えた。これに対して、被告桐野は、「肺癌ではない。」「心配ない。」と説明し、同日、改めてまゆみの胸部レントゲン写真を撮影した。その写真でも、昭和六二年六月のレントゲン写真とほぼ同じ(横隔膜の挙上については右ほどは目立たない。)腫瘤様の異常陰影が認められる。担当医師としては、右写真を読影した場合には、異常陰影に気づいて、その異常については肺癌・結核・肺炎などを考慮に入れて精密検査を指示すべきであったし、血痰が見られたなどの訴えがあったのであるから肺癌を疑うべきであった。ところが、被告桐野は、上気道炎の可能性が高いと考え、その対症療法を施したもので、過失がある。

(二) 被告らの主張

(1) 被告桐野は、昭和六二年六月一七日のまゆみの定期健康診断の検査の結果、血液一般、血清、生化学及び尿検査については、血糖値以外に異常所見は得られず、胸部レントゲン撮影では、右第二弓の軽度突出及び右横隔膜の挙上があるとの所見が得られたので、これを総合して、糖尿病の精査のため糖負荷検査を受けることを指示し、レントゲン所見については、まゆみに咳や痰、血痰がないこと、呼吸音が清明であること及びその他の検査結果、既往歴、年齢、性別、全身状態などを総合的に勘案して、直ちに胸部の精密検査をする必要はないものと判断したものであり、右判断に過失はない。

(2) また、被告桐野は、同年七月一四日、糖負荷検査を受けに来たまゆみを診察した際、まゆみから、父親が糖尿病で療養中であること、身長が一四九センチメートルで体重四八キログラムであること(標準体重に比べてやや太り気味と考えられる。)及び六月中旬ころから咳、痰が出て、痰の一部に血が混じることを聞き、胸肺部を聴診し異常はなかったが、咽頭に発赤が見られたため、レントゲン撮影を指示した。しかし、右レントゲン所見は前回の所見と大差がなく、被告桐野は、上気道炎を第一に考え、咳・痰に対する消炎剤、去痰剤を処方した。

まゆみが肺癌を心配して尋ねたことはなく、被告桐野がその点につき判断を述べたこともない。

そして、まゆみが、咳、痰等を訴えていたということなどから直ちに肺癌と確定診断できるわけではないし、まゆみの年齢、性別、喫煙歴のないこと、一般状態等も併せて考えれば、被告桐野が、糖尿病及びそれに付随する感染症を第一義的に考えたとしても右時点での判断としてはやむを得ないものというべきで、右判断に過失はない。

3  被告林田の過失

(一) 原告らの主張

被告林田は、昭和六二年七月二七日、まゆみに対して同月一四日の糖負荷検査の結果を説明し、糖尿病に対する食事療法を指示した。この診察の際、同月一四日のカルテの記載内容からは、まゆみの訴え及び被告桐野の処方が認められ、また、まゆみは、林田に対しても咳、痰及び胸痛などにつき説明をしている。このような場合、担当医師としては、本当に糖尿病に伴う感染症だけでよいのかを疑うべきで、具体的には、それまでのまゆみのレントゲン写真を取り出してその確認をするか、又は新たにレントゲン写真を撮り直し、それにより胸部疾患の有無・内容について確認するべきであった。ところが、被告林田は、それ以前に撮影されたまゆみのレントゲン写真を取り出すことが簡単であったにもかかわらず、それを確認せず、また撮り直しもせずに、気管支炎に対する対症療法を施したのみで、過失がある。

(二) 被告らの主張

被告林田は、もともとまゆみの受診は糖尿病の検査結果を聞きに来たのが契機であったことに加え、糖尿病を基礎に持つ患者の感染症で咳や痰の症状が長引くことはままあることなどから、引き続き対症療法で経過を見ることにしたものであり、右判断に過失はない。

4  被告小山の過失行為と結果との因果関係

(一) 原告らの主張

昭和六一年九月当時のまゆみの肺癌は、病期ステージⅠに該当するものであり、手術の結果の五年生存率は六五パーセント以上であった。

したがって、昭和六一年の時点で異常が発見され、大学病院等での精密検査、手術を行っていれば、まゆみにつき救命は十分可能であった。

(二) 被告らの主張

原告らの主張は、仮定条件の下での単なる希望的観測にすぎず、事実として認められるものではない。

5  被告桐野及び被告林田の過失行為と結果との因果関係

(一) 原告らの主張

昭和六二年六月ないし七月当時のまゆみの肺癌は、病期ステージⅢaに該当するものであったが、リンパ節を含む肺癌の転移は認められず、手術可能であった場合には三〇パーセント以下とはいえ五年間生存する可能性があり、手術ができなかったとしても、約一年ないしそれ以上の生存は期待できたのであった。

したがって、同年六月又は七月の時点で異常が発見され、大学病院等での精密検査、治療を行っていれば、まゆみにつき最悪でも半年程度の延命は可能であった。

(二) 被告らの主張

まゆみは、昭和六二年八月四日に日大病院で受診した際、胸水の存在が認められていることなどからすると、同年六月及び七月当時、リンパ節を含む肺癌の転移がなかったとはいえず、病期ステージⅢbあるいはⅣに該当するものであったのであり、既に手術は不可能であって、仮に、同年六月又は七月の時点で肺癌の疑いをもって精査その他を行っても、日大病院での治療との間で余後は変わらなかった。したがって、まゆみが罹患した肺癌の特性及びこれに対応する当時の医療水準に照らすと、まゆみにつき延命の可能性はなかった。

6  被告桐野及び被告林田の義務違反自体に基づく責任

(一) 原告らの主張

(1) そもそも医師は、患者からその生命・身体という最高の法益を託される職業であり、その義務の履行に際しては医療水準の如何にかかわらず緻密で真摯かつ誠実な医療を尽くすべき注意義務を負っており、右義務に違反して粗雑・杜撰で不誠実な医療をしたときには、医師のその作為・不作為と患者に生じた結果との因果関係を問うことなく、医師はその不誠実な医療自体につき、これによって患者側に与えた精神的苦痛の慰謝に任ずる責がある。

(2) 本件において、被告桐野は、医師であれば誤るはずのないレントゲン写真の読影を誤ったばかりか、まゆみが「肺癌でないか心配だ。」と訴えたのに対して「肺癌ではない。」「心配ない。」と積極的に肺癌を否定し、更に、昭和六二年八月四日、まゆみがレントゲン写真を借り出しに被告海上ビル診療所を訪ねた際には、大声で怒鳴るといった対応をした。

また、被告林田は、まゆみが血痰や咳等の不調を懸命に訴えたにもかかわらず、これを真剣に取り上げようとはせず、「何でもない。」と片づけてしまった。

(3) したがって、被告桐野及び被告林田は、右義務に違反してまゆみに対し粗雑・杜撰で不誠実な医療をしたのであるから、まゆみの生存・延命の可能性の有無にかかわらず、まゆみの信頼ないし期待を裏切って精神的苦痛を与えたことについて、慰謝料を支払うべき責任がある。

(二) 被告らの主張

(1) 原告ら主張の義務違反自体に基づく責任という構成は、損害賠償法上認められるものではない。

(2) 仮に、右のような責任が理論的に認められるとしても、それは医師の側の過失が極めて重大であり、それによって重篤な結果をもたらすなど、患者の期待を著しく害した場合に限られるべきであるところ、本件において、被告桐野及び被告林田において重大な過失はなく、まゆみの期待を著しく害したとはいえないのであるから、右責任は認められない。

7  被告東京海上及び被告海上ビル診療所の使用者責任

(一) 原告らの主張

(1) 昭和六一年の定期健康診断における被告小山及び氏名不詳の読影担当医の不法行為責任が認められることから、被告東京海上は使用者責任を負う。

(2) 昭和六二年の定期健康診断及び診療における被告桐野及び被告林田の不法行為責任が認められることから、被告海上ビル診療所は使用者責任を負う。

(3) また、昭和六二年の定期健康診断及び診療における被告桐野及び被告林田の不法行為責任につき、被告東京海上は被告海上ビル診療所と組織的、財政的、人的に密接な関係があり、少なくとも被告東京海上の社員の定期健康診断の関係では、実質的に同一又はいわゆる親会社・子会社の関係ないし支配従属の関係にあるといえるから、被告東京海上も使用者責任を負う。

(二) 被告らの主張

(1) 昭和六一年の定期健康診断における被告東京海上の使用者責任については争う。

(2) 昭和六二年の定期健康診断及び診療における被告海上ビル診療所の使用者責任については争う。

(3) 昭和六二年の定期健康診断及び診療における被告東京海上の使用者責任については争う。

被告海上ビル診療所は被告東京海上の関連医療法人であって、両者に相応の関係があることは否定しないが、医療は、医師という専門家が高度の技術と知識に基づき行う裁量行為であり、医師でないものが容易に評価ないし規制する能力を有するものではないところ、まして別個の法人格を持つ被告海上ビル診療所の医療行為につき被告東京海上が容喙する立場にはなく、両者の間に支配従属関係はない。

8  被告東京海上の安全配慮義務違反に基づく責任

(一) 原告らの主張

(1) 一般に企業は、労働契約ないしは雇用契約上、従業員の生命・健康・身体の安全を守るために相応の配慮をすべき法的義務があり、この安全配慮義務に違反して従業員に損害を与えた場合には、債務不履行として損害を賠償すべき責任を負う。従業員に対する定期健康診断の実施は、この安全配慮義務の履行の一環として位置づけられるところ、企業は、定期健康診断の実施にあたり、疾病の早期発見のために必要にして十分な健康診断制度を作りかつそれを運用すべき義務がある。

(2) 昭和六一年の定期健康診断の際、胸部レントゲン写真の読影に関しては、四時間半で約八〇〇枚の写真を多人数用読影機で休みなしに読影するという不適切な読影方法が採られ、しかも高齢の被告小山に行わせることで読影の精度を低下させていた。被告東京海上は、右健康診断の実施方法についての計画と実行を直接行ったものであるが、右のとおり欠陥のあるままレントゲン写真の読影を行わせて、まゆみの異常陰影を見落とす結果を招いたのであるから、安全配慮義務違反がある。

(3) 昭和六二年の定期健康診断の際、胸部レントゲン写真の読影に関しては、従前の二人の医師による読影から一人の医師による読影体制になり、しかも呼吸器の専門医でなく経験も浅い被告桐野及び被告林田が担当医となり、異常陰影を見過ごす危険性が増加する態勢となっていた。被告東京海上は、右健康診断の実施につき被告海上ビル診療所に委嘱したものであるが、右の危険性のある態勢を敢えて容認して、まゆみの異常陰影を見落とす結果を招いたのであるから、安全配慮義務違反がある。

(二) 被告らの主張

(1) そもそも医師は、高度の専門的知識と技術に基づき、医療行為を行うものであり、非専門家が容易に関与し得るものではないし、もともと健康診断には時間的、人数的その他の制約があることから、徒に手間暇をかけたところでそれに見合う成果が得られるという保証もない。したがって、被告東京海上は、一般医療水準に照らし相当と認められる程度の健康診断を実施し、あるいはこれを行い得る医療機関に委嘱すれば足りるのであって、右診断が明白に右水準を下回り、同被告がそれを知り又は知り得たというような特段の事情がないかぎり、責任を負うものではない。

(2) 昭和六一年の定期健康診断については、医師は自らの判断で休憩するなどの措置を採るはずで、被告東京海上がそれを伝える義務はないし、読影機も、当該機械で読影すること自体が不適切だとの事情はない。

昭和六二年の定期健康診断についても、二人の医師による読影でなければならないとまではいえない。

そして、被告各医師は、医師としての相応の能力を有し研鑽を積んできたものであった。

(3) 以上から、被告東京海上は、昭和六一年及び六二年のいずれについても、まゆみに対する安全配慮義務を懈怠したものではない。

9  損害

(一) 原告らの主張

(1) まゆみの損害(原告らが相続により等分に取得)

ア 救命について

逸失利益 六〇〇〇万円

まゆみの就労可能年数は三四年間であり、死亡前年の給与合計額五二九万三六八〇円から生活費として三〇パーセントを控除し、ライプニッツ方式により中間利息を控除すると、六〇〇〇万円(一万円未満切捨て)となる。

慰藉料 一五〇〇万円

まゆみは、死亡当時未だ満三三歳であり、人生半ばで無念の死を遂げた精神的苦痛を金銭に評価すると一五〇〇万円となる。

イ 延命について

慰藉料 五〇〇万円

まゆみは、昭和六二年六月又は七月に適切な医療を受けていても死の結果を免れることができない状態であったとしても、右時期から適切な治療を受けられず、相当期間の延命の利益を失い、甚大な精神的苦痛を被ったものであり、この精神的苦痛を金銭に評価すると五〇〇万円となる。

(2) 原告ら固有の損害

ア 慰藉料 各二五〇万円

原告らは、三人兄弟姉妹の一人であるまゆみを肺癌で失い、極めて大きく深い精神的苦痛を被ったものであり、この精神的苦痛を金銭に評価すると原告それぞれにつき二五〇万円となる。

イ 弁護士費用 各六三七万円

原告らは、本件訴訟の追行を弁護士に依頼し、報酬として原告各人が請求額の一五パーセントにあたる六三七万円(一万円未満切捨て)を支払う旨約束した。

(二) 被告らの主張

損害については争う。

第三  争点に対する判断

一  被告小山の過失について

1  検乙第一号証の四及び鑑定人林泉の鑑定の結果(以下「鑑定の結果」という。)によれば、昭和六〇年九月のレントゲン写真には、異常陰影は認められない。

したがって、被告小山が、右レントゲン写真につき「異常なし」と診断したことに、過失を認めることはできない。

2  検乙第一号証の五及び鑑定の結果によれば、昭和六一年九月のレントゲン写真には、その胸部につき右下肺野内側寄り第九後肋骨に重なるところに、境界不鮮明なやや高濃度の異常陰影の存在が認められる。

そこで、右異常陰影の発見が可能であったかどうかについて検討すると、鑑定の結果及び証人林泉の証言(以下「林証言」という。)によれば、右異常陰影の存在する部位は、他の臓器等の背景からこの部位の正常以外のものの陰影が指摘しにくい部位であること等の理由から、右レントゲン写真については、間接フィルム読影に熟練したものでも「異常なし」とする可能性があり、右レントゲン写真が、定期健康診断において撮影され他の数百枚のレントゲン写真と同一の機会に、当該被検者に関するなんらの予備知識なく読影された場合、当時の一般臨床医の医療水準を前提にすれば、右異常を発見できない可能性の方が高いと認められる。

そして、定期健康診断は、一定の病気の発見を目的とする検診や何らかの疾患があると推認される患者について具体的な疾病を発見するために行われる精密検査とは異なり、企業等に所属する多数の者を対象にして異常の有無を確認するために実施されるものであり、したがって、そこにおいて撮影された大量のレントゲン写真を短時間に読影するものであることを考慮すれば、その中から異常の有無を識別するために医師に課せられる注意義務の程度にはおのずと限界があるというべきである。

そうすると、被告小山の経歴、経験等を前提にしても、同被告が、昭和六一年九月のレントゲン写真につき「異常なし」と診断したことに、過失を認めることはできない。

二  被告桐野の過失について

1  昭和六二年六月の診断について

(一) 甲第四三号証、乙第二九号証及び被告桐野本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。

(1) 被告桐野は、昭和六二年六月一七日の定期健康診断の際、まゆみに対し、提出されていた総合問診表(以下「問診表」という。)に従って問診及び聴診を行った。

まず、問診表には、「受診の動機」として「会社の制度」に、「受診の目的」として「まず健康であるが、念のため健康診断を受ける」に丸がつけられ、「健康上気になっている事柄」としては「最近、肩こりに悩まされている」との記載があった。家族歴に、癌はなかった。既往症については、アキレス腱断絶で手術をしたこととアレルギー以外特記すべきことはなかった。

生活状況については、たばこは吸わず、体重減少などの変動はないが、肉体的易痰労感を訴えていた。

健康管理の状況については、ツベルクリンはBCG陽転で、過去の検診で異常はなかったとのことであった。

問診表の呼吸器系に関する事項においては、胸及び背中の痛みがあるとする外は、「『ぜんそく』があるか」「しじゅう『せき』になやむか」「『たん』がよくでるか」「『たん』はよく切れるか」「『血たん』が出ることがあるか」「『たん』に悪臭があるか」等の問いに対し、いずれも否定する回答であった。胸及び背中の痛みについては、肩こりと右前胸部の痛みで整形外科の診療を受けているとのことであり、右肩に皮膚炎の跡があったが消炎剤を貼った跡であることがわかった。

心臓血管系に関する事項においては、息苦しさと胸がしめつけられるような痛みの訴えがあったので、状態を質問したところ、三日前に一回、一〇ないし二〇秒くらいの痛みがあったということだったので、心電図を見たが異常はなく、狭心症等の疑いは持たなかった。

泌尿器系に関する事項においては、夜中に尿に起きるということであった。

血液に関する事項においては、めまいがするという訴えがあったので、質問したところ、立ちくらみがあるかないかということだった。

神経系に関する事項においては、「激しい頭痛が度々おこるか」「顔がほてったりのぼせたりすることがあるか」「しばしばめまいがするか」「歩くのに不自由を感じるか」という問いに対し、肯定する回答であった。

聴診上、異常は認められなかった。

(2) 被告桐野は、昭和六二年六月二四日、まゆみの定期健康診断の結果につき、血液検査等の結果を併せて総合判定を行った。

被告桐野は、まず、血液一般、血清、生化学及び尿検査については、血糖値以外に異常所見は認められず、夜尿等との問診結果と併せて、糖尿病精査のための糖負荷検査を指示することにした。

そして、胸部レントゲン写真では、右第二弓の軽度突出及び右横隔膜の挙上を認めたが、呼吸音が清明であること、咳、痰又は血痰がないこと、CRP、赤沈値、白血球数、LDR及び血算値等に異常がないこと、既往歴及び問診結果によるほぼ健康と認められる全身状態並びにまゆみの三三歳という年齢等から判断して直ちに胸部精密検査を行う必要性を認めなかった。

(二) 他方、検乙第二号証の一及び鑑定の結果によれば、次の事実が認められる。昭和六二年六月のレントゲン写真には、まず、右下肺野、縦隔寄りに小鶏卵大の八ツ頭状、心陰影第二弓と一部重なった、辺縁が比較的シャープな腫瘤様陰影が認められる。その上縁は第七後肋骨、下縁は第九後肋骨上部に達し、中心部に小指頭大の密度の濃い部分を包含するものである。そして、右第五肋骨付近の縦隔がなだらかに右方に突出している異常陰影の存在、右横隔膜の上縁が第九肋骨の上方にまで挙上していること、心陰影のシルエットサイン(心陰影第二弓の部位に接するか重なるもので、心陰影の密度に近いものが存在する場合心外縁は明瞭さを欠くことになるが、この現象をいう。)の存在も認められる。更に、右異常陰影から想定される疾患としては、肺癌、肺結核、肺炎及び胸部良性腫瘍であることが認められる。

そして、問診表による前記の諸情報を前提に、右レントゲン写真を読影した場合には、当時の一般臨床医の医療水準を前提として考えた場合、右下肺野の異常陰影には気づいて、要精査とすべきであることが認められる。

(三)  そうすると、この時点で、右レントゲン写真の読影担当医師としては、被検者につき精密検査を受けさせるべきであって、右異常陰影の存在に気づきながらも、この点については精密検査を不要とした被告桐野の判断は、誤っていたものと認められる。

したがって、被告桐野が、この時点で、まゆみに対し、精密検査を指示しなかったことには過失があったものと認められる。

2  昭和六二年七月の診断について

(一) 甲第四三号証、乙第二九、第三〇号証及び被告桐野本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。

まゆみは、昭和六二年七月一四日、被告海上ビル診療所において糖負荷検査を受け、被告桐野による診察も受けたが、その際、被告桐野に対し、父親が糖尿病で療養中であること、身長が一四九センチメートルで体重四八キログラムであること、六月中旬ころから咳、痰が出て、痰の一部に血が混じることを訴えた。

被告桐野は、まゆみの胸肺部を聴診し異常はなかったが、咽頭に発赤が見られたため、レントゲン撮影を指示した。しかし、そのレントゲン所見は前回の所見と大差がなく、被告桐野は、上気道炎を第一に考え、咳・痰に対する消炎剤、去痰剤を処方し、経過観察とした。

(二) 他方、検乙第二号証の二及び鑑定の結果によれば、昭和六二年七月のレントゲン写真でも、昭和六二年六月のレントゲン写真とほぼ同じ腫瘤様の異常陰影(わずか異なる点は、腫瘤陰影の縦隔側と反対側、即ち肺野の側がやや外側に突出してきたこと、下縁の辺縁がやや不鮮明になったこと、腫瘤影に包含される小指頭大の密度の濃い部分が不明瞭になったことなど)の存在等が認められる。

そして、診察の際の前記まゆみの訴えと総合しても、右レントゲン写真を読影した場合には、当時の一般臨床医の医療水準を前提として考えた場合、やはり右下肺野の異常陰影には気づいて、肺癌、結核、肺炎等を考慮にいれた精密検査が行われるべきであることが認められる。

(三)  そうすると、この時点で診察を行った医師としては、患者につき精密検査を受けさせるべきであって、上気道炎を第一に考え、咳・痰に対する消炎剤、去痰剤を処方し、経過観察とした被告桐野の判断は、誤っていたものと認められる。

したがって、被告桐野が、この時点で、まゆみに対し、精密検査を指示しなかったことには過失があったものと認められる。

三  被告林田の過失について

1  甲第四三号証、乙第三〇号証及び被告林田本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。

被告林田は、昭和六二年七月二七日、被告海上ビル診療所において、まゆみに対し、同月一四日の糖負荷検査の結果、糖尿病であることを説明し、糖尿病に対する食事療法を指示した。

その後、被告林田の問診に対し、まゆみは、痰を伴った咳が出ること、時折発作的に咳が出ることを訴えた。

被告林田は、その際、被告桐野による同月一四日のカルテの記載内容を読み、右訴之を聞いて、まゆみは気管支炎ではないかと考え、被告桐野による前回の処方では去痰剤が中心で、咳止め作用の薬があまり出ていなかったことから、咳止めを中心に処方を変え、経過を見ることにした。

2  他方、鑑定の結果によれば、被告桐野による昭和六二年七月一四日及び被告林田による同月二七日の各カルテの記載内容を前提に患者の疾患を想定すると、糖尿病の他に、呼吸器疾患として感染性の疾患が存在することが疑われ、肺癌も考慮する余地があるが、糖尿病を持つものが易感染者であり、慢性若しくは亜急性に経過する感染性疾患を来たし易いという思考の方が一般的で、血痰を伴う激しい咳という症状から直ちに肺癌を予想することは、一般医家としては、少なく、治療経過を見て次の段階で考えるものとして肺癌があるとするのが一般的であることが認められる。

3  そうすると、七月二七日の時点で、被告桐野のカルテ及びまゆみの前記訴えから、直ちに肺癌を疑うことは困難であったといえ、その際、それまでのまゆみのレントゲン写真を取り出して見るか、又は新たにレントゲン写真を撮り直すべきであったとまでいうことはできない。

したがって、被告林田が、改めてレントゲン写真を見ることなく、気管支炎に対する処方をして経過を見るとした判断に過失があったということはできない。

四 被告桐野の過失行為とまゆみの死亡との因果関係

1 鑑定の結果によれば、昭和六二年六月ないし七月の時点でのまゆみの肺癌は、病期ステージⅢa以上に該当するものと推定され、手術が可能であったとしても三〇パーセント以下の五年生存率となり、リンパ節転移の状況によっては更に延命は困難であり、手術不能の場合、最高の治療を行ったとしても五〇パーセント生存期間を一年まで延命することは困難であること、遠隔転移が認められればⅣ期症例となりそれ以上に延命は困難であることが認められる。

2 そして、昭和六二年六月ないし七月の時点でまゆみの肺癌がリンパ節に転移していなかったとは断定できず、かえって、林証言によれば、たとえ同年六月ないし七月の時点で肺癌の疑いが認められたとしても、まゆみの余後に大差はなかったであろうことが窺われ、その時点で適切な処置をしていれば、現実の転帰に比べて相当期間(原告らの主張によれば最悪でも半年)の延命利益をもたらしたであろうと推認できる事情は見当たらない。

3 そうすると、被告桐野の昭和六二年六月及び七月の各時点での前記過失により適切な処置がとられなかったために、まゆみの死亡時期を延ばすことができなかったという意味で、右過失と延命利益の喪失との間に相当因果関係があるとは認められない。

五 被告桐野の義務違反自体に基づく責任について

原告らは、そもそも医師は医療水準の如何にかかわらず緻密でかつ真摯かつ誠実な医療を尽くすべき注意義務を負っており、右義務に違反して粗雑・杜撰で不誠実な医療をしたときには、医師のその作為・不作為と患者に生じた結果との因果関係を問うことなく、医師はその不誠実な医療自体につき、これによって患者側に与えた精神的苦痛の慰謝に任ずる責があると主張する。

しかし、医師の作為・不作為(過失)と患者に生じた結果との間に相当因果関係が認められない以上、当該過失によって損害が発生したとはいえない理であって、この場合にまで損害賠償責任を肯定することは困難であると解せられる。

したがって、原告らの主張する不誠実な医療自体についての慰謝料という考え方は、採用の限りではない。

六  被告東京海上の安全配慮義務違反に基づく責任について

1  いわゆる安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきものである。

そして、一般の企業において、その従業員に対する定期健康診断の実施は、労働契約ないし雇用契約関係の付随義務である安全配慮義務の履行の一環として位置づけられるものであるとしても、信義則上、一般医療水準に照らし相当と認められる程度の健康診断を実施し、あるいはこれを行い得る医療機関に委嘱すれば足りるのであって、右診断が明白に右水準を下回り、かつ、企業側がそれを知り又は知り得たというような事情がない限り、安全配慮義務の違反は認められないというべきである。

2  これを本件についてみると、被告東京海上において実施された昭和六一年及び六二年の各定期健康診断について、原告らの指摘する具体的事情を前提としても、これらが明白に一般医療水準を下回る場合に当たることを認めるに足りる証拠はないことから、被告東京海上につき、まゆみに対する安全配慮義務違反があったとは認められない。

七  結論

以上のとおりであるから、原告らの本件請求は、その余の主張について判断するまでもなく、いずれも理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する

(裁判長裁判官萩尾保繁 裁判官浦木厚利 裁判官市川智子)

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